読売巨人軍の背番号「61」と伝説の投手の話をしてみようじゃないか。

すっかりご無沙汰。先月末以来の野球記事。

背番号ネタは2,3ヶ月前に「日本球界に永久欠番はいくつあるか知ってる?」で書いてるんだけど、

今日はちょっと角度を変えた背番号のお話。

出世番号

巨人の背番号「61」と言えば、現在日本球界屈指のショートストップとも言える坂本勇人がルーキー時代につけていた番号である。

その後、中井大介、和田恋と、巨人フロントが強く成長してほしいと期待している若手選手に与える番号となっている。たぶんイメージでいえば、広島の51番(前田智徳→鈴木誠也)やヤクルトの23番(青木宣親→山田哲人→?)みたいな感じじゃないだろうか。

もっとも、今のところ坂本ほど大きく飛躍した選手が出ていないために、「巨人の出世番号だ」とは言いづらい状況であるが、今回はそんな巨人の背番号「61」についてのウンチクを。

伝説の投手・村瀬広基現る……。

かつて巨人には背番号「61」をつけた村瀬広基という投手がいた。もしかすると、結構な巨人ファンのかたでも「そんな選手いたかなあ?」と首をかしげるかもしれない。だが、それも無理のないことなのだ。

何しろ村瀬はたった15日で燃え尽きてしまったからである。川上巨人の優勝に大きく貢献しての完全燃焼だ。

1961年8月巨人は自慢の投手陣が怪我やスランプで壊滅状態だった。その一方で、ライバル球団には金田正一権藤博など桁外れの活躍を見せるエースたちがいた。

そんなとき巨人スカウトは関西大学に「滅法速く、シュートが切れるやつがいる」と聞きつけた。それが村瀬だ。村瀬は巨人が大阪遠征の際に呼び出され、別所コーチの前で投球を披露した。すると別所コーチは川上監督に「今すぐ欲しい」と言い、スカウトを働かせて契約させる。そして9月4日に登録7日にテスト登板17日に先発広島相手に3安打完封をしてのけた。

中3日で中日戦を投げ、4安打2失点で2勝目をあげる。あれよあれよと半月で5勝をマークする暴れぶりを見せつける。3完封。4完投。43回。2失点(森徹によるツーラン。村瀬の野球人生初の被本塁打)。防御率は0.419。素晴らしい成績を残し、見事チームの優勝に貢献した。

伝説の投手・村瀬広基去る……。

だが、その大車輪の活躍がたたり肩を痛めた村瀬はその後四年間で2勝しか出来ないまま巨人を去った。否、野球界から去ったのである。

その後、野球をすっぱり辞めた村瀬は、巨人のフロント入りの話を断った。そして、大阪の魚河岸で住み込みで働き、修行をし、松山で店を持ち、大阪に戻って店を営んだというから驚きだ。

とまあ、巨人の背番号「61」には華々しい坂本勇人のようなスター選手や、球団に期待されるホープ以外にも、打ち上げ花火のようにド派手に散っていった男の物語もあることを、少しでも多くの人に知ってもらいたく思い、記事にしてみた。

参考資料:巨人軍の100人

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