野球漫画は実際の野球を越えられない。
世の中には野球漫画がたくさん存在している。
巨人の星、ドカベン、キャプテン、MAJOR、おおきく振りかぶって……。
どれも名作であることに何の異論もないが、俺はそれらを「野球」をベースにした主人公たちの成長物語として捉えている。
つまり、「野球」というスポーツに打ち込む主人公たちが、様々な障害を乗り越え、ライバルたちと切磋琢磨する中で成長していく物語を楽しむ漫画だと考えて読んでいるわけだ。
なぜ、そう考えているかというと、どんなに熱い展開が繰り広げられたとしても、実際の野球の試合が持つ「リアリティ」と「ドラマチック」のバランスには敵わないからである。
それって作者のさじ加減なんじゃないの?
たとえば「3点ビハインドで迎えた9回裏の攻撃」という場面があったとしよう。
1番から3番までの打線が上手く機能し、満塁でチームの4番にまわり、見事逆転サヨナラ満塁本塁打を打ったとする。
これを漫画でしてしまうと「そんな都合良く4番にまわってきて、本塁打をかっとばせるもんか?」「そんなに現実って甘いもんじゃなくね?」と「作者によるさじ加減じゃないの?」が滲み出てうんざりしてしまうのだ。
でも、実際の野球の試合で同じことが起こったとしたら、「おおっ! すげぇ!」と歓声をあげて、打った打者を手放しで讃える。現実に打った事実はそのまま受け入れられるからである。
たしかに野球漫画は面白い。だが、それは作中の野球そのものが面白いのではない!
これがどういうことかというと、大抵の場合、主人公たちにはライバル的な存在がいて、ライバルは主人公たちよりも強く設定されている。
だから、主人公たちはそのライバルを倒すために、様々なトレーニングを積んだり、合宿を行なって技術や精神力を鍛える。特訓のようなことも行うかもしれない。
また、その最中に登場人物たちそれぞれに事件が起こったり、問題が生じたりしつつ、それを乗り越えていく様子が必ず描写されているはずだ。
読者はその主人公たちが少しずつたくましく成長していく様子をずっと追うようにして漫画を読んでいるわけである。
ずっと見守ってきた主人公たちが、念願のライバルたちと試合を行う。その感慨深さと、それまでの努力という過程が報われるのか、報われないのかを楽しんで読んでいるのである。
野球を楽しむ際に、選手ひとりひとりのキャラクター性なんか気にならない。
本来、野球の試合を観る時に、どの選手がどんな家庭環境に育ち、誰とライバル関係であるかなんて情報が頭になくても、楽しんで観戦出来る。
ようするに実際の試合は目に映る選手たちの動作(プレイ内容)だけで満足させてくれるようになっている。
だけど、漫画などのフィクションにおいては、それでは誰も面白がらないだろう。
キャラクターが立っていないとつまらないし、複雑な人間関係や主人公たちの心の中などもわからないと感情移入が出来ない。
実際の野球には「動作(プレイ内容)」。漫画の野球には「感情移入」がそれぞれ必要なのである。
結論がこれだね。
結局、現実の野球観戦には不必要な感情移入が、漫画の野球においては必要というか核の部分になっている。これが言いたかったわけだ。
つまり、作中の野球に夢中になっているわけではなくて、見守ってきた主人公たちに対する感情移入に夢中になっているのである。
もっとも、これは野球漫画に限ったことではなくてスポーツ漫画全般に言える。
散々言っておきながら何だけど、野球漫画は大好きだ。とくに「あぶさん」好き。