見終わった直後、誰もが神妙な面持ちで席を立ち、誰もが無言のまま館内を後にする感じ。これが去年の「カメラを止めるな!」とは真反対のリアクションだった。
でも、皆、各々思っていたはずだ。
「こりゃ、凄い映画観ちゃったな」
と。
ジョーカーになる前のアーサー演じる、ホアキン・フェニックス。彼が醸し出す哀愁から狂気(あるいは狂喜かもしれない)への変わりようがたまらないんだな。
その変わり様は奇しくも、かつてジョーカー役もしていた名優ジャック・ニコルソン主演の映画「シャイニング」での怪演を彷彿とさせた。
印象的なシーンも多いが、あまり掘り下げていくとネタバレになるから書けない。。。が、予告にも使われてるシーンは、非常に重要な要素が集まっているってことだけは言えるかなと。(え? 当たり前だろって?)
特に階段を使った演出は鳥肌が立った。
あとね、監督はいくつかの映画に影響を受けてるとパンフレット内に書かれてるんだけど、そのうちの「カッコーの巣の上で」だけは俺も観てたんだ。
何とこの作品もジャック・ニコルソンが主演なんだけども、たしかに哀愁の種類が似ている気がしたよ。
映画を観ていて思ったのは、誰もが誰かの悪意を沸騰させうるし、誰もが悪意に呑み込まれうるなということ。
また人に対して無関心でいれば、それもまた悪意の沸騰に繋がりうるし、それは人から人へと感染もしていくかもしれない。
ありきたりではあるが、人の中には善悪の秤があって、常に揺れているんだと思う。
大抵は極端に善か悪かに偏ることもなく、比較的平穏無事に生涯を終えられるのだろう。
でも、もし運悪く辛く厳しい現実が、最悪のタイミングで悪の秤に体重をかけてしまったら?
そんな可能性が自分には絶対にないと誰が証明出来るのか。そうなれば、誰しもがジョーカーになる可能性を秘めているということに繋がっていく。
心の優しい、人を笑顔にさせたい男が主人公。彼には向精神薬が欠かせず、重大な障害も抱えながら、毎日懸命に働いていた。
だが、何度も何度も冷たい現実が彼を踏みにじり続けた。
その結果として、悪の秤に偏った凶悪な犯罪者が生み出されてしまった。その責任が本人だけに求められるのは、あまりに酷な気がしてならない。
ここで誤解して貰いたくないのは、そうした凶悪犯罪者を庇うつもりは微塵もないということ。裁かれるべきは裁かれなければならない。
ただ、自分の振る舞いが露骨な差別や、無関心さを伴って、誰かを傷つけていないか。また、それが誰かにとっての「絶対に引いてはならない」引き金になりえないかを考えてみることは大切なんじゃないかと思ったのである。
また、それがいつも「加害の者」側であるとも限らない。自分が「被害の者」側になることだってない話ではない。
「人間、美しく綺麗で品行方正な面だけを見て生きてけると思うなよ」と言われている気がした。
ガツン、と芯くる映画だったね。
でも、俺はこう解釈しただけで、まったく別の奥行きのある解釈をした人も沢山いるだろうな。俺は観ながら何度も泣いたけど、そうじゃない人もいるだろうし。
それくらい多角的な見方が出来る良い映画だったってことで笑
念の為に付け加えておくなら、俺の解釈はある意味、「観たまま、そのままをドストレートに受け止めた」場合のパターンである。
あとね、パンフレットを買って読むなら、絶対に観賞後にしよう。先に読むと多分後悔することになるぜ( ̄▽ ̄;)
以上、ネタバレ0感想でした。