今や日本を代表するゲームのひとつとなった「ポケットモンスター」。
その生みの親である、田尻智がインタビュー形式でポケモンが誕生するまでのアレコレを語るという一冊だ。
いわゆるポケモン第一世代としては垂涎必至の本で、書店に並んでいたのを即買いしたのを覚えている。
田尻のゲームとの出会いからのめり込むまでの話であったり、学生時代にそれまでなかったゲームの攻略本的な同人誌を発行したり、ポケモンを創りあげるにあたっての苦労話が凝縮されている。また、独特な着眼点と行動力で様々な問題を突破していく様は心地いい。
創作におけるチームプレー
この本ではポケモンを開発した「ゲームフリーク」という会社についての述懐が事細かく掘り下げられていて興味深い。
各々特技を持ったゲーム好きなオタクが集まって、社長・田尻を中心に切磋琢磨して成長しあう中で夢を実現していく話を読んでいくうちに、赤塚不二夫の漫画の描き方を思い出した。
そして、田尻智と赤塚はよく似ていると思った。
赤塚不二夫は漫画を描くときに独りで頭を抱えたりしなかったという。優秀なブレーン、アシスタント、担当編集者たちを巻き込んで、楽しくアレコレ考えながら毎週の原稿を描いたそうだ。当時としてはあまりメジャーではなかった、分業制も取り入れて取り掛かったとも聞く。絵が上手な人。博学な人。それぞれの特技を取り入れて、『みんなで』自分の世界観をぐいぐいと広げていったのである。
田尻にしても、グラフィックの才能を持った漫画家志望の少年や、プログラムを学ぶ学校に通っていた音楽に興味を持つ少年など、自分の持っていない力や技術を持った逸材を仲間に引き入れて、自分の思い浮かべた世界をゲームに流し込んで形に変えたのだ。田尻も赤塚も、自分の足りないものを補い、『みんなで』創作することに微塵の躊躇も見せない。
俺からすると、その『みんなで』ひとつのものを創り上げようという感覚に、どうも違和感を覚えてしまって仕方がない。ここも俺のダメなところだなという実感があるんだけど、どうにも治らない。どうしても「自分の力だけで創り上げたい」という気持ちがあふれてしまって、結果にっちもさっちもいかなくなるという最低の状態にしょっちゅう陥る。
俺も十代後半から二十代前半にかけての数年間、地元の創作グループと岡山の創作グループとの両方に所属して色々やっていた時期もあった。でも、俺に創作にかける情熱とチームプレイできる器用さや配慮が欠けていたために、あまり集団であるメリットを活かせないまま脱退してしまった過去がある。
今思うと、とてももったいないことをした。
もっとも、俺自身に個人的な野心が強すぎたこともあるし、また集まった仲間たち全員が打ち倒すべきライバルだという気持ちが強すぎたから、それも無理からぬことだったとも思う。
結局のところ、同書を読み進めていくなかで浮き彫りになった自分の欠点は、根本的な技術や知識の不足の他に、「謙虚さの欠如」「自己中心的発想」「自己過信(誰かに頼ることが出来ない)」「協調性の欠如」などだ。我がことながら、心が折れそうになるほど問題点だらけ。何しろ、創作以前の問題であり、人間的な問題であるから今にも気を失いそうだ。
まあ自分の中の致命的なエラーが改めて発覚しただけでも儲けものか。
愛しの90年代についての述懐
さらにこの本のたまらないところは、テレビなんかではもうあまり触れないような90年代のハードな話題をさらりと載っけてあるところだ。
たとえば、レインボーマンの話の流れでオ〇ム真理教のエピソードに流れて行って新興宗教の話題になったり、宮〇勤を絡めたオタク論めいたものであったり、『ピンク・フラミンゴ』について語ってみたりと、まあ鋭くエッジのきいた話題のオンパレード。
一時、世界中の犯罪史や凶悪犯について調べていたことがある俺にとっては、そういった面でも興味深い資料となった。
また、このあたりに初めてポケモンをプレイしたときに感じた「陽に見せかけた陰のようなもの」の正体を見たような気分になったなあ。
また時代背景を考えれば、不気味で不思議な空気をはらんでいたからこそ、爆発的なヒットになったんじゃないかなと思った。
初代(赤版緑版)が発売された当時には、ちょうど怖い話や都市伝説なんかが流行っていて、ポケモンの「何か謎が隠されている」妖しいびっくり箱みたいな魅力がピッタリ合わさったんじゃないかって思う。
まとめ
最初の方で、田尻の活動方法を赤塚不二夫に似ているといったが、名将・三原脩監督のやり方にも似ていると思った。
三原監督は、一芸に秀でた選手(たとえば打撃に特化した選手やバントの上手い選手など)をかき集め、重要な局面において「絶対にこの場面は決めたい」ときに登場させる戦法をしていたと聞く。得意分野が明確な人材を集めて、目的に向かって一丸となるカタチが似ているなと思う。
また、この方法を行おうとするときには「この人のためなら尽力しよう」と思わせる何かが必要だと考えるが、田尻、赤塚、三原の3人に共通するのは、それを思わせるカリスマ性を発揮していたことだろう。よく似た方法を選択し、実践する人たちというのは人としてのタイプも似ているのだなあと感心した。
ジャンルは違っても、俺が好きになったり憧れたりするのは似たようなタイプになるようだ。
それはきっと彼らが自分の中にないものを存分に発揮するのが心底羨ましいからかもしれない。
この本を読み終わった時、ふとそんなふうな思いを抱き、何となく寂しくなった。