「これ、うちの畑でいっぱい出来たけん、みんなで食べて」
徳島県全土で今もあるのかは知らないが、そういう「おすそわけ文化」が俺の住む地域では今でも当たり前のように残っている。今回はそれについてちょっとばかし語ってみようと思う。
大量のおすそわけDAY
今日は親戚のおじさんおばさんが「200のつもりで作ってたら倍出来たけん」と言いつつ、新玉ねぎ(さらに大根とジャガイモもオマケにくれた)を大量に持ってきてくれた。今の季節しか食べられない新玉は、生で食っても美味い。しかも、採れたて新鮮。
本当の本当に産地直送の採れたてほやほやの新玉ねぎ。大根。
家に上がってもらい、しばらく一緒にお茶しながら話し込む。山奥に住んでるおじさんおばさんから、「鹿にネギを軒並み食われた話」や「猿との知恵比べ対決」、「昔の嫁姑問題」などの話を面白おかしく聞かせてもらって過ごした。
昔の嫁姑問題はなかなか深刻で、本当に大変だったらしい。それを踏まえて考えてみれば祖母たちもめちゃくちゃ苦労したんだろうなと容易に想像できた。
そのふたりが帰ってすぐ、また家の前に軽トラが止まった。
いったい誰だろうか。
仲良くしてもらっているご近所さんだった。何でも「今朝いっぱいトウモロコシが採れたけん」ということで、大量におすそ分けを持ってきてくれたらしい。
このご近所さんも本当に良くしてくれて、趣味の釣りで釣り上げた「鮎」であるとか「巨大なタケノコ」であるとか、自然の恵みをおすそ分けして下さる。
本当にありがたい。
別のご近所さんからは「すもも」と「枝豆」をてんこ盛りいただいたこともあった。「すもも」はジャムにし、枝豆は茹でて晩酌のおともとしていただいた。
俺なりの「おすそわけ」論
いろいろ考えてみる。
もしかするとこの俺の体の半分くらいは、周囲の人からの「おすそわけ」、ご厚意によって構築されているのかもしれない。
賛否両論ありそうなこの「おすそわけ」文化。
俺にはその両論に答えを出せる自信はない。
各々の思いやりを無碍にするのも失礼だと思うし、「お返しをしなきゃいけない」「考えなきゃいけない」という現実的な(金銭的なのも含めて)問題も実在すると思うからだ。なかには「余計なお世話だ」と思う人がいてもそれは当然。
「これをおすそわけしたいな」と思う人がいれば「これはおすそわけしたくないな」と思う人や、もらって「嬉しいな」という人もいれば「嫌だな」と思う人がいるかもしれない。人それぞれというのはそういうことでもあるだろうから、仕方のないことだ。
だからこそ難しい問題なんだろうなと、近隣トラブルは絶えないんだろうなと思った。
この「おすそわけ」文化の根底にある「困った時はお互い様」という思いやりみたいなものが、今は足りてないんじゃないかとほろ酔い気分な俺は思う次第である。
別におすそわけする、しないは別の問題で、単純に気持ちの問題としてそう思った。生きづらさを感じる多くの人たちが本質的に求めるものは、案外古いものの中に隠れているかも知れないよ。
温故知新って言葉もあるし。
もっと楽しく生きようよ。ツンケンしてたらつまらない。