徳島県の古地図や昔の資料などを眺めている中で、
「今、俺が当たり前に見ている景色も、いつかは無くなって変わっていくんだな」と思うようになった。
時の流れは無情であり、無常でもある。
地球で生活するからには、重力を無視することは不可能だ。生きている以上、衰えず、死んで消えずにいることは不可能だ。景色にしても、我々人にしても、同じであり続けることは不可能なのだ。
いつか必ず消え去っていってしまう。 抗えない現実が確実に存在する。
そう思えば思うほど、今、目の前にある様々なものが少しは愛おしく感じられる気がした。
今際の際の自分を思う
いつか必ず訪れる最後の最期の瞬間に、その時の俺は俺自身を誇ることが出来るだろうか。最後の最期の瞬間に、どれだけ満足出来て、どれだけ未練を残すのだろう。
それはそうと、最近「ああしておけばよかった」「こうしておけば……」という未練がましい後悔は、生きていく上で必要なことなんじゃないかと思うようになった。
未練や後悔は、次へとつながる種になりえると気がついたからだ。
今際の際の未練や後悔は、もしかすると来世につながる種になるかもしれない。もちろん、来世なんかがあるかどうかはわからないし、知りようもないけど。
「いつか終わってなくなる」ことが大前提の今を、もう少し大切に考えていかなければならないな、と思いながら段々畑を眺めてみる。
この畑にしても、10年後、20年後に同じように存在しているかどうかはわからない。やがて、誰も手入れをしなくなって、雑草に陣取られるようになって、段差の区別もつかなくなってしまうかもしれない。
そうだとするなら、俺がこうして徳島県のことを記事にしていく当ブログも、徳島県に流れる時間の瞬間を切り取った、ひとつの資料として役立つ日がくるかもしれない。
2020年前後の徳島県を、その時代に生きた30歳前後の男からの視点での情報として。10年後、20年後の未来からすると、「へえ、このころの徳島はこんな感じやったんや」と言われるほど変わってしまっているかもしれないものな。
さて、そんな未来のことを考えるのもいいが、それはさておきこの記事をどうやって終わらせよう。。。広げた風呂敷がどれくらいの大きさなのかさえ曖昧なまま、テキトーに書きすぎて長くなった。。。
よし、おしまい。