そこからの道のりは、まるで処刑台へと向かう死刑囚のように重たい足取りだった。
一方、尚美は何が楽しいのか鼻歌を口ずさみながら、軽快に歩いている。
そして、私に向かって、
「ほな、私、先に行ってチケット買うてくるけん、ふたりのこと見とってな」
と言ってチケット売り場まで駆けていった。
私は呆然と「ああ」だか「うう」だか感情のこもらない返事をしていたように思う。
「あっ、橋が見える! あれがそうなんかなあ」
はしゃぐ武と「きっとそうよ。ホンマに吊橋なんやなあ」と笑う幹子。
そして、それを極力見ないようにする私。
「いやけいおおはし」を楽しそうに手をつなぎ歩いている幹子と武。武が立ち止まり、石碑を指さして「粉引き節ってなんなん?」と訊ねてきた。正直、気持ちはそれどころではなかったが、我が子がせっかく興味を持って質問しているのだ。親として出来る限りの答えを教えてやらねばならない……。
「そ、それはな……」
と答えようとしたとき、ふいに幹子と目があった。何かを訝しむような目である。
「なあ、お父さん、何か変やな。どっか具合悪いんちゃうん?」
ベテラン刑事のような鋭い洞察の眼差しで私を見据え、聞いてきた。
「いや、ちょっと疲れたんかもしれん。でも、いけるわ」
そんなやり取りをしていると、待ちくたびれた様子で尚美が「何しとん、はよ来ぃって」と我々に手を振りながら呼びかけてきた。
なんだ。なんなんだ。ミッキーマウスと記念撮影したときでさえそんなテンションではなかったはずだ。お前の中では天下のミッキーよりもかずら橋なのか。
「お母さんが呼んどぉけん急ごう!」
武と幹子が私の手を取り、引っ張るように駆け出した。仕方なく子どもたちに合わせて私も走った。
尚美が「はい、チケット持って」と私たちにチケットを手渡す。喜ぶ子どもたち。だが、私には地獄への片道切符にしか見えなかった。
「僕、一番乗りじゃ!」
「あーずるい!」
と武と幹子が何の躊躇もなく、我先に、とかずら橋を渡り始めた。
「あっ、ふたりとも気をつけるんよ。落ちんようにちゃんとゆっくり行かんと」
そういうと尚美もふたりの後を追うように渡り始めた。
だが、いつまで経っても私が続く気配がないのを不思議に思ったらしく、尚美が振り返って、
「ほら、あなた。行こう。ふたりとも渡りきってしまうよ」
とにっこり笑った。本来なら、子どもたちを除いた世界では一番愛すべきパートナーの笑顔であるが、この時ばかりは地獄から手招きして。ほくそ笑む悪魔か死神にしか見えなかった。
彼女のセリフもまるで三途の川を渡らせようと、家族の姿をした悪い幽霊のように思えた。
無論、そんなのは恐怖心が見せる幻にすぎず、尚美や子どもたちにそんなつもりは微塵もない。そんなことはわかっていた。頭では理解していた。
だが、肝心の体が思うように動かないのだ。足はがくがく震え、全身から脂汗が滲み出てくるのがわかった。目の周りはチカチカと点滅するようになり、わかりやすく言えば貧血で「ああ、そろそろ立ちくらみが来て、倒れるなあ」と思うくらいのギリギリの状況である。
「あなた?」
「お父さーん! はよう、はよう!」
不思議そうに振り返る尚美とやたら急かす武。そして、もう半分以上渡りきったあたりで私を振り返り、何かを探るような目をして見つめる幹子。六つの眼差しに半ば強迫めいたものを感じつつ、引き寄せられるように、橋に第一歩乗せることになった。
もう行くしか無い……。
多分、幹子は怪しんでいる。もしかすると勘づいているかもしれない。何しろ賢く鋭い子だからな。
これ以上不信感を抱かせる訳にはいかない。何、問題ない。かずら橋は四十五メートルの距離だ。学生時代には五十メートルを六秒台で駆け抜けた私にしてみれば、大した長さじゃないはずだ。
それにこの橋を構築するシラクチカズラにしたって、三年ごとに架替えするらしいから安全面だって問題ない。大丈夫。大丈夫。大丈夫。ゆっくり行けばいいんだ。
進みさえすれば良い。まるで景色をのんびり眺めるような具合で渡れば、尊厳威厳は守れる。なに、問題ないさ。
最初の一歩、二歩、三歩まではそろりそろりとゆっくりではあったが、何とか進むことが出来た。
だが、四歩、五歩くらいになると足場と足場の隙間の長さが異様に気になり始めた。
高さが怖いので、本当は下を見ないようにしたいのだが、足場を見なければ意外と隙間があるので踏み外す恐怖心もある。なので、否応なしに足元を見ながら、端の太くたくましいカズラにしがみつくようにしながら一歩、一歩進んでいく。
足に体重を乗せて踏みしめるたびに、ぎしぎしという音が耳に入ってくる。
やがて、一番恐れていたポイントに達したとき、私の足は完全に止まった。
やや幅の広い足場と足場の間から、橋の下を流れる川が見えたのだ。途端に高さが具体的にイメージ出来てしまったために、それまでごまかしごまかしで進めてこられた足が止まったのである。
今、私は猛烈に高いところに立っている!
そうなるともうどうにもならない。空を仰ぎ見ようが、足元に視線を落とそうが、何しようが自分が高さ十四メートルの吊橋のうえにいるという現実がたまらなく恐ろしくなってきた。そのあまりの恐怖心に、私は次第に自分を客観視する余裕を失っていった。
その後の記憶はまるでなく、気がつくと心配そうな家族の顔が自分を覗き込んでいた。
のちにわかったことだが、橋の上で動けなくなった私は、情けないことにたまたま居合わせた観光客に助けられたそうだ。
どうやら私はあまりの恐怖に橋の上で失神してしまったようである。
何とか失禁することはなかったようだが、それでも充分すぎるほど情けなさすぎる姿を家族に晒してしまった。
そして、今はそんな醜態を晒しての帰り道というわけである。
いつの間にか後部座席での小競り合いは終わっていて、幹子も武もそれぞれ窓の外の景色を眺めているようだった。
終わった。完全に終わった。
これまで必死で演じてきた「完全無欠の親父」が、「威風堂々の親父」がこんなかたちで終焉を迎えるとは思いもしなかった。
何十回目かのため息を心のなかでついたとき、誰かが肩をぽんっと叩いた。